MIYAKE ISSEY展 三宅一生の仕事

PUBLICITY

il GiornaleFebruary 2016

p1
p3
p4
p5
p6
p7
p8
p1 p3
p4 p5
p6 p7
p8 p9

1/5

p1
p3
p4
p5
p6
p7
p8
p9

三宅一生
芸術的な服づくり

特集
三宅一生 生きる意味

文:Daniela Fedi(ダニエラ・フェディ)

今月のil Giornale STYLE MESEは、今日までの全仕事を紹介する大展覧会が東京で開催される偉大な日本人デザイナー、三宅一生を特集。広島原爆を生き延びた彼は、アート、デザイン、服づくり、そして自由のために人生を捧げてきた。
「1945年8月6日、私の故郷の広島に最初の原爆が投下されました。当時、私はわずか7歳でした」。このような書き出しで始まる胸を打つ手紙は、三宅一生が、核兵器の単なる削減ではなく核兵器廃絶を表明したアメリカ合衆国のオバマ大統領に宛てて認(したた)めたものだ。手紙は次のように続く。「目を閉じれば今も、想像を絶する光景が浮かびます。炸裂した真っ赤な光、直後にわき上がった黒い雲、逃げまどう人々……。すべてを覚えています。母はそれから3年もたたないうち、被爆の影響で亡くなりました。私はこれまで、その日のことをあえて自分から話そうとはしてきませんでした。むしろ、それは後ろへ追いやり、壊すのでなくつくることへ、美や喜びを喚起してくれるものへ、目を向けようとしてきました。衣服デザインの道を志すようになったのも、この経験があったからかもしれません。デザインは現代的で、人々に希望と喜びを届けるものだからです。服づくりのしごとを始めてからも、『原爆を経験したデザイナー』と安易にくくられてしまうことを避けようと、広島について聞かれることにはずっと抵抗がありました。しかし今こそ、核兵器廃絶への声を一つに集める時だと思います」。今年は日本がG7サミットのホスト国である。オバマ大統領は三宅の期待通り、最終的には広島・長崎訪問を決断するだろう。ちなみに三宅は大統領に対し、広島訪問の際には爆心地近くに建てられた平和大橋を渡ることを勧めている。この橋の欄干をデザインしたのは日系アメリカ人アーティストのイサム・ノグチである。偉大な日本人デザイナーの三宅曰く「私はイサム・ノグチさんの仕事にずっと大きな影響を受けてきました。特にこの欄干は、少年時代の私に初めてデザインというものが持つ力を教えてくれた作品です。今私がこうしてデザインの仕事に携わっているのも、ひとえにこの欄干のおかげです。」その三宅の今日までの全仕事を紹介する大展覧会『MIYAKE ISSEY展: 三宅一生の仕事』が、3月16日より6月13日まで、東京の国立新美術館で開催される。名前を姓から始める表記法は三宅自身の発案で、理由はパリ・コレクションの公式メンバーであり世界中で展開されているブランドとしての『ISSEY MIYAKE』と区別するためである。彼の言うこと為すことには偶然はひとつもない。すべては入念に考えられてのことだ。このことはまさにボードレールの言う、才能ある者だけがなせる業なのである。実際、回顧展でもモードの展覧会でもなく彼の今日までの仕事の全体像を紹介する今回の展覧会が明らかにするのは、彼の服が持っているパーソナルかつユニバーサルという特性である。すなわち彼は服を、個人の身体の住まいであると同時に、社会と密接な関わりのあるものであると考えている。この、それ自体で革命的な考えを彼はなんと、1960年に日本で初めて開催された世界デザイン会議の際にすでに表明していた。当時はまだ多摩美術大学の一学生にすぎなかったにもかかわらず、勇敢にも彼は世界デザイン会議主催者宛に手紙を出し、いったいなぜ服のデザインが会議に含まれていないのかと問うた。「服というのは我々自身が思っている以上にもっとずっとユニバーサルな次元で我々の生活と密接に関わっているデザインの一分野です」と絶えず述べてきた彼は、あの厳しいNew York Times(ニューヨーク・タイムズ)紙が「天才」と評する数少ないデザイナーのひとりだ。3部構成の展覧会の第1セクションでまず紹介されるのは、身体についての、さらには身体と服の相互作用——最終的にこれが服のシルエットを決定づける——についての三宅の徹底した探究である。ちなみに彼が自身のデザイン事務所を設立したのは遡ること1970年で、その前に彼はパリでユベール・ド・ジバンシーとギ・ラロッシュのもとで研鑽を積み、同地で1968年のフランス五月革命に遭遇する。「私自身は政治運動には直接関わりませんでした。私はむしろ時代の変化をこの目に焼き付けていました。そして悟るに至ったのです。服とは人々の生活を反映するものでなければならないと。さらには世代間の壁を壊すものでなければならないと」。次いで彼はパリからニューヨークに渡り、今度はやはり若者たちが中心のベトナム反戦運動に遭遇、その後日本に帰国して自身の事務所設立に至った。そして事務所設立の1年後、ニューヨークで初コレクションを発表。しかしその後はパリ・コレクションに参加し、以来今日まで彼のブランドはコレクション発表の場をパリに定めている。三宅は今日までに服飾史に残る重要な仕事をいくつも成し遂げている。たとえば1991年3月に初めて発表され、後に彼の最も画期的で代表的な仕事のひとつとなる『PLEATS PLEASE』は、独自開発のポリエステルファブリックにプリーツをヒートプレスで施すというもので、三宅がウィリアム・フォーサイス率いるフランクフルト・バレエ団とのコラボレーションで披露したプリーツのコスチュームは大きな話題をさらった。三宅のプリーツはきわめてシンプルなシルエットが特徴であるが、洗濯機で30°の水で洗うことができ、瞬時に乾き、アイロンがけ不要で、スーツケースに入れてもほとんど場所をとらず、また季節を選ばず、そして着る人の動きに応じて変幻自在にフォルムとシルエットを変える。ところで今回の展覧会にはこのプリーツをはじめ彼が特にチームワークで成し遂げてきた斬新な仕事の数々に焦点を当てるセクションがある。ちなみに現在はISSEY MIYAKEウィメンズを担当しているデザイナーの宮前義之とそのチームが情熱をもってウィメンズコレクションを展開している。宮前の前は、藤原大が、さらにその前は滝沢直己が、巨匠三宅が研究に専念できるようメインコレクションを受け継いできたが、こうした継承の流れはまさにソクラテス学派を連想させる。そしてPLEATS PLEASEの次は、『A-POC』。一枚の布(A Piece Of Cloth)の略であるこのプロセスは、予め服が織り/編み込まれたファブリックチューブに着る人本人がハサミを入れ、自らの好みやニーズに応じたディテールを選択しながら服を切り取るというものである。さらに続く『132 5. ISSEY MIYAKE』は、三宅が彼の研究開発チームReality Lab.(リアリティ・ラボ)と共に折りたたみの数理を用いて実現した服づくりである。その特徴は、折りたたまれた状態では二次元平面の円や四角の布が、ひとたび開いて着用されると一変、鋭角や三角形の折り目によって構成されるボリューム豊かな三次元立体の服に変容する点にある。折りたたまれた状態で10種類の基本型(モデル)があり、アイテムもシャツ、スカート、パンツ、ジャケット、ドレスに至るまですべて揃っている。しかも、用いられている素材も独自開発物だ。それは複雑なプロセスによって実現された再生繊維で、このプロセスは素材を分子レベルで分解して再構成するため無限に繰り返し再生が可能だという。今回の展覧会は、Time(タイム)誌が選んだ「20世紀に最も影響を与えたアジア人」としてマハトマ・ガンジーや毛沢東と肩を並べる三宅の仕事についての初めての展覧会ではないし、これが最後の展覧会になることももちろんあるまい。かつて彼は、パリのヴォージュ広場にある自身のヨーロッパ・オフィスで我々のインタビューに次のように答えてくれた。「イッセイとは日本語で“一生(いっしょう/ひとつの生命)”という意味で、一方ミヤケは“三宅(みっつの家)”という意味です。みっつの家でのひとつの生、あるいはひとつの生のなかでみっつの家…。自分の名前に実存主義的な意味合いを感じます。事実、私は東京とパリの間を往き来する生活ですし、若い頃はニューヨークにも住んでいました」。そのニューヨークには2001年9月11日にも彼はいた——ハドソン・ストリート119番地にフランク・ゲーリーが内装を手掛けた新しいストアのオープンを控えて。ツインタワーの崩壊後、彼は何日にもわたって誰とも話すことなく宿に閉じ込められた状態だった。最も近しいコラボレーターたちとさえも連絡が取れない状況だった。人生において二度も想像を絶する恐怖——広島、そして911——を経験することに果たして人は耐えられるものなのか。幸い三宅は一度目の経験で人々を幸せにする仕事をすると決意した天才であり、その彼の固い決意は二度目の経験によっても挫かれることはなかった。