MIYAKE ISSEY展 三宅一生の仕事

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The Observer

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三宅一生
偉大なデザイナーがTamsin Blanchardに語る

五感の王国
齢77にして三宅一生は今なお服づくりの最前線に立つ。タムシン・ブランチャード記者が東京で三宅を密着取材。

三宅一生は自らがデザインした紙のスーツをまとい、意気揚々としていた。「しわにならないんですよ!」と彼は微笑みながら私に言い、袖の部分を指で少しくしゃくしゃにしてみせた。するとなるほど、くしゃくしゃになった部分は指を離すとすぐに跳ね返ってすっと元通りに伸びた。
彼が着ているのは小粋なブルーのシングルジャケットに揃いのパンツという大変シンプルな様相のスーツで、パンツはロー・クロッチ(*股の部分が低いスタイル)ではないし、全体のデザインもアシメトリーではなく、袖は付いていてほしい思うところに両方ともちゃんと付いている。ランダムプリーツさえかかっていないほどのシンンプルさだ。にもかかわらず、これは典型的な三宅一生デザインの服だ。45年以上にも及ぶ服づくりを通して、彼は決して革新することを止めずにきた。軽くて、実用的で、自宅で洗えて、そしてしわにならない服づくりに彼は強いこだわりを持っている。
齢77の三宅は今日、比較的余裕を持って仕事をしている。ウェーブのかかった髪はグレーに変わりつつあるが、彼の顔は若々しいままだ。1945年8月6日、彼の生まれ育った故郷、広島に原子爆弾が投下された。当時まだほんの7歳だった彼は幸い生き延びることができたものの、彼の母は原爆投下から三年のうちに被曝が原因で亡くなった。これは三宅の口から直接聞いたことではないが、2009年、彼はニューヨーク・タイムズ紙に寄稿した自身のエッセイの中でそのことに言及している。このエッセイは世界で最初に原爆が落とされた広島の原爆記念日にオバマ大統領の広島訪問を促している。「ことし4月、オバマ大統領は、核兵器なき世界の平和と安全を追求すると誓った」という書き出しで始まるこのエッセイはさらに次のように続く。「彼は核兵器の単なる削減ではなく、廃絶を呼びかけたのだった。彼の言葉は、私の中に深く埋もれていたものを呼び覚ました。私がこれまで、話したくないと思っていたものを甦らせた」。
2015年12月、彼はふたたび自らの原爆体験について、今度は日本の読売新聞に語った。それによるとその日彼は疎開先の町の学校にいて、朝礼の後に教室に入るや突然ドーンときたのだった。そして彼は母を探しに市内に行き、翌日になって母が治療を受けている場所を探し当て、再会を果たしたものの、母はすぐに彼に安全な田舎に行くよう言った。三宅が過去を振り返りたくないのは、なるほど無理もない。
滅多に公の場に姿を見せない彼が先月久方ぶりに公の場に現われた。それは東京の国立新美術館において開催される彼の半世紀近くに及ぶ仕事を概観する大展覧会『MIYAKE ISSEY展 三宅一生の仕事』の開幕式のためだった。記者会見の席上で彼が熱く語ったのは自らの過去の業績ではなく、次に取り組もうと計画している仕事についてだった。そして彼は会見席に持ち込んだスーツケースを開けた。すると中から出て来たのは大きな一枚の手製和紙と、その同じ和紙からラフに作られた、着物スタイルのシンプルな一着のジャケットだった。それらを見せながら「現在私は紙の文化に大きな関心を寄せています」と彼は述べた。
長年にわたって素材の研究開発を続けてきた三宅は、日本の東北地方に位置する宮城県白石の職人によって手仕事で織られたこの独特な和紙を以前に贈られていた。「白石の和紙職人の女性がアーカイブに保管してほしいと私の元に送ってきたのです」。これは記者会見の後に私が彼と話す機会を得た際に教えてくれたことだ。美術館のエントランスには彼が正式に展覧会の開幕を宣言するのを聞こうと大勢の人々が集まっていたが、それをよそに彼は私に熱く語ってくれた。天井に吊り下げられていた彼の鮮やかな色彩のドレス『フライング・ソーサー』の一着が、開幕を待ちわびて集う人々の上を羽ばたいていた。
「インドの紙は有名ですし、エジプトにはパピルスがありますし、中国にも独自の紙文化があります。そうやってどの国も紙という自然素材を古来より用いてきました。問題はその継承が尽きかけつつあることです。なぜなら紙づくりというのは非常に大変な仕事だからです」と三宅は流暢な英語で私に語る。「件の和紙職人の女性は現在96歳です。しかし彼女の持つこの貴重な技術を受け継ぐ者はひとりもいません。製法を革新することで白石和紙はさまざまな用途に用いることができるはずだと私は考えています。白石はかつて300もの和紙工房が軒を並べたものだったが、2011年の震災で深刻な打撃を受け、現在ではたった一つの工房を数えるのみとなっている。
伝統は三宅にとって大変重要なものだ。まさに最もベーシックな素材と古来の伝統を新しい革新技術と融合させることによってこそ、彼の服づくりはそのスタートより45年にもわたってモード界で前衛としての位置を——常に決定的というわけではないとしても技術的に——占め続けてきた。三宅の服の愛用者にはビッグネームが少なくないが、先日急逝したザハ・ハディドもそのひとりだった。生前彼女は大変好んで三宅の服を着たものだった。
展覧会に合わせ先月タッシェンから、三宅の仕事についての研究書としては決定版とも言える書籍(タイトルはシンプルに『Issey Miyake』で、ものすごいボリューム)が刊行されたが、これによりこの先何年にもわたって三宅の仕事はその影響を波及させてゆくことだろう。 
今をときめくデザイナー、ジョナサン・アンダーソンは最近『Business of Fashion(ビジネス・オブ・ファション)』誌に次のように語っている。「私は常に三宅一生に、そして彼の実に多種多様な人々との恊働の仕方に、深く魅せられてきました」。同様に、ロンドンに拠点を置くフランス人デザイナーで、2015年度のLVMH(モエヘネシー・ルイヴィトン)賞ファイナリストであるフォスティーヌ・スタインメッツも、三宅のとりわけ『PLEATS PLEASE(プリーツ プリーズ)』の普遍的なプロダクトとしての服づくりに魅了されている。PLEATS PLEASEは彼女が自分のブランド以外で唯一袖を通すブランドだ。
PLEATS PLEASEの服はポリエステル素材で作られており、洗濯機で洗えるだけでなく、丸めてスーツケースに入れても形崩れせず、取り出したときには瞬く間に詰め込む前のパリっとして弾力性のある形状に戻る。軽くて多文化的で、年齢も季節も問わないどころか、性別さえ問わない。(ちなみに『HOMME PLISSÉ(オム プリッセ)』は、PLEATS PLEASEの顧客の一割が男性であると知って三宅が新たに発足させたプリーツのメンズラインである。)しかも手頃な価格で提供されている。
展覧会で私が感銘を受けたのは、三宅の服がいかに時を超越していて、なおかつどれほど的を得ているかということだった。このことは、それが初期の作品であっても当てはまる。たとえば柔道着や農家の作業着に用いられる耐久性の高いキルトファブリックで作られた『刺子』(1971年秋冬コレクション)や、タイ・ベルトの付いた、ゆったりとしたカッティングの着物スタイルのコート『丹前』(1976/77年春夏コレクション)、あるいは伝統的に男性の着物の裏地に使われるファブリックで作られた赤いシャツとクロップドパンツのセットアップ『正花木綿』(1976/77年春夏コレクション)などがそうである。服はどれも絶妙にボディに着せつけられて展示されていたが、このボディは『グリッド・ボディ』と呼ばれるもので、波形を施した一枚のボール紙もしくはアクリルプラスティックを365のパーツにレーザーカットし、それらを巧みに嵌め込み合わせて人体のかたちが作り上げられていた。
三宅は資源および環境問題に、それが社会問題になる遥か前から深い関心を寄せていた。これからのデザイナーにとっての重要課題は何だと思うか私は彼に尋ねてみた。すると彼は「我々はもっと少なくしてゆかねばなりません」と言って、我々の消費量を減らす必要性を示唆したうえで、このように続けた。「これは重要なことです。パリでは服をつくる人々のことを“クチュリエ”と呼び、彼らクチュリエは新奇な服をつくっていますが、しかし実のところデザインという仕事は現実生活で機能するものをつくることなのです」。
言い換えればすなわち、服づくりは服をつくることそのものが目的になってしまってはならない、そうではなくて服は某かの目的を持つべき、つまり某かのソリューションを提案すべきものであるということだ。「重要なのは何かをつくることです」と三宅は言う。「名を知られるようになることなどデザイナーにとって重要なことではありません。有名無名問わず良い仕事をするだけです。たとえデザイナーのステイタスにこの先変化が生じることになっても私はそう思います」。
三宅のデザインは来月ニューヨークのメトロポリタン美術館コスチューム・インスティチュートで開催される展覧会『Manus X Machina: Fashion in an Age of Technology(手仕事×機械:テクノロジー時代におけるファッション)』において大きく取り上げられる予定だ。当美術館のキュレーター、アンドリュー・ボルトンが来日して東京国立新美術館での三宅の展覧会開会式に出席した。この来月の展覧会で展示予定の三宅の作品の中には、1994年春夏コレクションの『フライング・ソーサー』ドレスと、1999年の『A-POC(エイポック)』作品も含まれるという。ボルトン曰く「三宅の服にはオーラが漂っています。とりわけA-POCはコンピューターテクノロジーとクラシックな編み機の見事な融合から生まれたものでした。彼は自身の事務所の当時のテキスタイルエンジニア藤原大と共に一本の糸から服を編み上げる一体成形の服づくりの方法を考案したわけですが、それは裁断・縫製の過程を省いた一つのインダストリアルなものづくりプロセスと言えます」。 Trend Union(トレンド・ユニオン)社を主宰するトレンド予想の第一人者、リー・エーデルコートによれば、三宅は服飾の歴史の過去、現在、未来を体現している。「どうすればひとりの人間がこれほどまでに創造的、独創的になり得るでしょうか?」と彼女は問いかける。「ひとりの人間がこれだけの仕事を成し遂げるとは、とてつもないことです。彼の仕事は常にテイスト、色彩、シェイプに一貫性がありますが、しかしながら革新・進化をし続けています。そして常にテキスタイルへの強い関心が認められます」。

子どもの頃、三宅はアスリートになりたかった。本展の展示作品のひとつに、1992年、当時独立して間もなかったリトアニア国のバルセロナ・オリンピック代表選手団チームのために彼がデザインした公式ユニフォームがある。スポーツへの愛とつながって彼の服は常に身体に動きの自由を与えるものであり続けてきた。そして彼の展覧会やプレゼンテーションはいつも、彼の服の柔軟性に(そしてしばしば弾力性に)脚光を当てる。
三宅は1960年代に東京の多摩美術大学でグラフィック・デザインを専攻し、1965年に日本を出てパリに渡った。エコール・ドゥ・ラ・シャンブル・サンディカル・ドゥ・ラ・クチュール・パリジエンヌに入学して服づくりの方法を学び、その後ユベール・ド・ジバンシーのもとで研鑽を積んだ。もしかしたらオードリー・ヘップバーンが着ていたかもしれないドレスのデザイン画を描いている三宅の姿を思い浮かべるのは、今となっては不思議な感じがする。なぜならそれはその後彼がつくり続けてきた妥協のない、断固して未来志向でインダストリアルな服づくりの世界からは程遠い世界だからだ。三宅がパリで受けたオートクチュール教育がいかにして、たとえば彼の友人でプロダクトデザイナーのロン・ラッドとのコラボレーションによる、服としても着られるチェアカバーづくり(A-POCイノベーションのひとつ)に結実するに至ったのかは考えてみても想像もつかない。
しかし三宅は1968年、パリで五月革命に遭遇している。それに、ランチを楽しむブルジョアのご婦人方を装わせることには興味がなかった。ジバンシーのもとを去った後、彼はギ・ラロッシュのもとで、さらにはニューヨークに渡ってジェフリー・ビーンのもとでさらなる研鑽を積んだ。そして1970年、彼は東京に三宅デザイン事務所を設立し、1971年に初コレクションをニューヨークで発表した。彼の最も初期の作品のひとつに、伝統的な日本のタトゥー技術を用いてジミ・ヘンドリクスとジャニス・ジョプリンのポートレイトを手描きプリントしたジャージーのボディスーツがある。1970年のこの作品のプリントを手掛けたのは、三宅の最も長きにわたるコラボレーターのひとり、皆川魔鬼子である。(彼女は現在、自身のブランド『HaaT(ハート)』を株式会社イッセイミヤケから展開している。)
三宅は常に恊働でものづくりを成し遂げてきた。最近では日本人グラフィックデザイナーで無印良品の共同設立者でもあった故・田中一光のアーカイブと恊働し、1981年の『Nihon Buyo(日本舞踊)』をはじめとする彼のポスター作品をモチーフとしたプリーツの服とアクセサリーのシリーズを発足させた。
しかし三宅の最も有名なコラボレーションはおそらく、アメリカ人写真家アーヴィング・ペンとのものだ。1986年から14年間、三宅のアタシェ・ド・プレス北村みどりは毎シーズン4日間、ペンとの仕事のためにニューヨークへ派遣された。まず彼女は丸一日費やしてペンに東京から持ってきた服——トランク数個分——を見せ、それからペンが実際にそれらの服をモデルにまとわせ、抽象的なポーズをいろいろと取らせるというのが常だったが、その際ペンは北村にもっと服を重ね合わせることを要求し、そしてボリュームが全くないところに別の服を巻きつけたりモデルの頭にドレスを巻いたりしてボリュームを出したものだった。
「ペンさんは主に『Vogue(ヴォーグ)』誌の仕事をしていましたが、そこでは非常に決められた方法で服を撮影することが求められます。ですが三宅の服の撮影は完全に自由にやってもらいました」と当時を回想した北村は、私が話を伺ったとき展覧会の最後の仕上げの真っ最中だった。「三宅は挑戦的なものに取り組むことにやりがいを覚える人なのです」。
現在三宅デザイン事務所社長である北村は、70年代半ばから三宅の右腕であり続けてきた。今回彼女は、数千点にも及ぶ三宅のアーカイブ収蔵作品の中から本展での展示作品の選定を担った。彼女曰く三宅は当初より自身の作品や資料を全て保存してきたが、それはおそらく自らの仕事の重要性を予見していたのだろう。
会場には、三宅のプリーツの服にロジェ・ヴィヴィエのパンプスを合わせた装いの長身女性がいた。それが誰あろう、北村みどりであった。話を聞くと、彼女は21歳の時にフィッティングモデルとして三宅と仕事を始めた。三宅は彼女が彼の服について率直な意見を述べるのを——ときに「これは好きじゃない」と言うことがあっても——大変喜んだという。また彼女は三宅のパリ行きにも同行し、ショーのためのモデル選びやスタイリングを手伝っていたそうだ。「あの頃はパリへ行くとよく、向こうのデザイナーが我々を自宅でのディナーに招待してくれたものでした。当時は真のデザイナー・コミュニティというものがありました」。こうして三宅たちはソニア・リキエル、エマニュエル・ウンガロ、ジャン=シャルル・ドゥ・カステルバジャック、高田賢三らと交流を重ねたのだった。
1994年、三宅は自身のメインコレクションのメンズラインの舵取りを、次いで1999年にはウィメンズの舵取りを当時のアソシエイト滝沢直己にバトンタッチしたが、それは2007年の『21_21 DESIGN SIGHT(トゥーワントゥーワン デザインサイト)』のオープンを含む自身の研究プロジェクトに専念するためだった。とはいえ以来今日まで三宅は自らのブランドの全コレクションを監督し続けている。(ちなみに滝沢は現在、ユニクロのクリエイティブ・ディレクターである。それゆえだろうか、このファストファッションチェーンに三宅の影響が如実に感じとれる。)その後ウィメンズの舵取りは藤原大を経て2011年に宮前義之が引き継いだ。
それが紙であろうとデジタル生産技術であろうと、三宅のチームは革新を続ける。ごく最近の成果の一例としては、近未来的な感覚のバッグ『BAO BAO(バオ バオ)』が挙げられる。合成樹脂製の三角形のパーツを組み合わせてポリエステルメッシュの上に繋ぐことによって実現されたフレキシブルに曲がるグリッド状のそのバッグは、あっというまに口コミやネットを通して広まり、今やこのバッグを携えている人をありとあらゆる場所で見かける——東京の街角から、ロンドンのファーマーズ・マーケット(農産物直売所)に至るまで。
しかし三宅の成功(彼の会社は日本に133店舗、海外に91店舗を有し、8つの服やバッグのラインに加え、香水、照明器具、時計も展開しているが、今なお非公開会社である)の秘密は、彼がテクノロジーを積極的に活用しているからというだけでは正確ではない。むしろ、革新的なもの——インダストリアルなもの、デジタルなもの——と、手技という最も素朴で原初的なものを融合させるべくテクノロジーを駆使しているからである。2007年、彼はReality Lab.を立ち上げた。「日本のテクノロジーには目を見張るものがあります。我が社ではさまざまなものを開発していますが、頼もしいデザインチームのおかげで安心して仕事を任せられます。それで私は心おきなく自由に研究に打ち込めるのです」。 自由な精神の持ち主の彼は常に自身独自のやり方で、自分のペースで仕事をしてきた。「私の仕事の仕方は六ヶ月毎のコレクション・サイクルとは違います。今私が強い関心を持っているのは、長い時間をかけて育まれる伝統的なものづくりです」。 
展覧会の開会式の中で三宅はフランス政府からレジオン・ドヌール勲章コマンドゥールを授与された。(2010年にカール・ラガーフェルドも受勲)。彼はその祝賀晩餐会には出向かず、夜を自宅で静かに過ごすことのほうを選んだ。しかし私には分かる。彼はこの夜ずっと勲章を胸に、次なる挑戦、すなわち最も基本的な素材、紙を用いて世界をより良い場所にする方法を夢想していたに違いない。

文:Tamsin Blanchard(タムシン・ブランチャード)
写真:Kevin Foord(ケビン・フールド)