MIYAKE ISSEY展 三宅一生の仕事

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MetropolisMay 2016

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野球のユニフォームに着想を得て創造されたこの服には、刺し子と呼ばれる、古くから柔道着や農作業着に用いられてきた丈夫なファブリックが用いられている。彼の素材研究の数々は展覧会『MIYAKE ISSEY展: 三宅一生の仕事』の核心をなす部分だ。
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In Depth(徹底調査)

今号のカバーストーリーはニューヨーク市をあげての盛大なイベント『NYCxDESIGN』についてである。展示紹介されるプロジェクトやプロダクトのみならず、このイベントの立役者やキーパーソンらにも焦点を当てる。しかしその前に、デザイナー・三宅一生の長年にわたるイノベーションの数々を考察する特集からスタート。さらに、建築家Andrea Lenardin Maddenの手掛けた、ハリウッドヒルズの伝統家屋の考え抜かれた増築の仕事をレポート。

A to Z of Issey Miyake(三宅一生のすべて:三宅一生A to Z)


3月16日、デザイナー・三宅一生の46年に及ぶデザイン活動に捧げられた展覧会『MIYAKE ISSEY展: 三宅一生の仕事』が、6月13日までの会期で東京の国立新美術館において開幕した。そしてこの展覧会に合わせ、タッシェンから三宅一生についてのものすごいボリュームの研究書——タイトルはシンプルに『ISSEY MIYAKE』——が刊行されたが、この本は間違いなく三宅一生研究の決定版となるものである。これだけでも凄いことなのに、三宅の仕事はさらに今月、メトロポリタン美術館の展覧会『Manus x Machina: Fashion in an Age of Technology(手仕事×機械:テクノロジー時代のファッション)』でも取り上げられることになっており、彼の伝統技法と先端技術を融合させた服づくりが展示紹介される予定だ。今こそ明らかに、この広島生まれの、世界で最も洞察力に優れたクリエイターのひとりであり続けている “独創的なものづくりの第一人者”三宅一生の仕事を考察するに相応しい時機である。
1970年に自身の事務所を設立して以来、三宅はテキスタイル開発から服、小物、インテリアの創造に至るまで、革新技術と伝統的な手技を融合させた美しい仕事を成し遂げてきた。彼は熱を用いた革新的なプリーツ技術の開発や、一枚の布による服づくりを通して、布の可能性の、ひいては布と身体の関係の、新境地を切り開いてきた。モードが皮相的な様式化の傾向を強めても、三宅はそうした風潮とは一線を画し、『PLEATS PLEASE』や『A-POC』に代表される仕事を通して、体型を問わず着る人誰もが似合う服を創り続けた。「私がつくっているのは、着る人の一部となる、つまり着る人の身体の一部となるような服です」と三宅はかつて述べている。「私の服はいわば道具(ツール)です。まさに道具(ツール)を使いこなすように、着る人それぞれが思い思いに着こなしてくだされば良いのです」。
齢78の三宅は今日、これまで以上にますますその存在感を増しており、プロエンザ・スクーザー、ジョナサン・アンダーソン、滝沢直己ら新世代のデザイナーらに影響を与えている。『MIYAKE ISSEY展: 三宅一生の仕事』のオープニング・レセプションの際、三宅はフランス政府より最高勲章レジオンドヌール・コマンドゥールを授与されたが、まさにこれは世界をより美しく持続可能な場所にすべく挑戦を続ける革命的デザイナー・三宅に相応しい顕彰だ。さて本誌もここに、本誌独自のオマージュを三宅に捧げることにしよう。かくして我々が作りあげたのは、デザイナー・三宅の画期的な仕事、革新的な思想、そしてコラボレーターたちについてなど三宅のすべてを知ることができる手引書『三宅一生キーワード辞典』。これを読んで彼の創造の喜びに触れ、未来の大きな可能性を感じてください。
文:Paul MakovskyとAvinash Rajagopal
ポートレイトおよび展覧会写真:Tony Taniuchi
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A
POC(エイポック)


A Piece of Cloth(一枚の布)の略である『A-POC』は、一枚の布で身体を包むという三宅の発想から生まれた服づくりである。そのスタートを飾った1997年の『Just Before(ジャスト・ビフォー)』コレクションは、コンピュータープログラミングされた工業用編み機から、服が予め編み込まれたニットチューブをひと続きに連続的に編み上げ、その後これらのニットチューブの中からそれぞれ服を切り取るというものだった(写真参照)。しかもそれはさまざまな風に切り取ることが可能で、着る人各人がそれぞれの好みに応じて自ら服のかたちを決めることを可能にするものだった。「私は服づくりのシステムに抜本的な変革をもたらすべく研究開発に邁進してきました」と三宅はかつて述べている。「かくして開発に至ったのがA-POCです。まず、一本の糸をマシンの中に送り込みます。するとマシンが最新コンピューター技術を駆使して、この送り込まれた一本の糸から服を編み/織りあげ完成させるのです。これにより従来の服づくりでは必要だったファブリックの裁断・縫製作業が不要となるのです」。A-POCは労働力を削減するにのみならず、布の無駄を極力減らし、糸のリサイクルをも可能にする服づくりのプロセスである。
文:Paul Makovsky
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B
Body(ボディ/身体)


1980年から1985年にかけて、三宅は彫刻的な服のコレクション『ボディ・シリーズ』を創造した。それはこれまで決して服に用いられることのなかった繊維強化プラスティックや合成樹脂、ラタン、ワイヤーといった硬質素材を用いてトルソ(胴)を覆うボディをつくるというもので、たとえば1980年秋冬コレクションで発表された『プラスティック・ボディ』はプラスティック素材でつくられており、またラタンとバンブーを用いてつくられた1982年春夏コレクション発表の『ラタン・ボディ』(写真参照)はアメリカの美術雑誌『Artforum』の表紙を飾った。「これらの彫刻的な——闘志あふれる積極果敢な女性のための服と言ってよいかもしれない——服は、三宅の忌憚のない飽くなき探求精神と、革新技術と伝統技法を融合させようとする試みの双方がひとつに合わさることによって生み出されました」と、国立新美術館『MIYAKE ISSEY展 三宅一生の仕事』展担当キュレーターの本橋弥生は記している。
文:Paul Makovsky
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C
Collaboration(コラボレーション)


三宅のデザイナー人生は伝説的なクリエイターらとの独自のパートナーシップで彩られてきた。一例を挙げれば、アーヴィング・ペン、田中一光、倉俣史朗、ロン・アラッドとのコラボレーションがよく知られており、さらに最近はArtemide(アルテミデ)やIittala(イッタラ)といったデザイン・ブランドともコラボレーションを行っている。「服づくりは独りで行う仕事ではありません。多くの人々との連携を必要とします」という三宅の発言が、書籍『Irving Penn Regards the Work of Issey Miyake/アーヴィング・ペン 三宅一生の仕事への視点』(1999年、Bulfinch Press/求龍堂)の中で引き合いに出されている。「私は服づくりをチームワークで行っています。できあがったものはチームとしての成果です。映画製作と同じです」。
1996年から1998年にかけて三宅は、PLEATS PLEASEをカンバスとして用いて作品制作してもらうというプロジェクト『PLEATS PLEASE ISSEY MIYAKEゲスト・アーティスト・シリーズ』を行う。かくして招聘されたコラボレーター、森村泰昌、荒木経維、蔡國強、ティム・ホーキンソンの4人が、それぞれにスリリングでユーモアに溢れる作品を創り上げた(写真参照)。
とはいえ、三宅にとって究極のコラボレーターは彼の服を着る人々である。そのことは彼自身が言明している。「私のデザインした服を、人々が思い思いに着こなしてすっかり自分のものにしている様を目にするのはとても嬉しいことです。服というのはまさに着られて初めて、着る人と作り手とのあいだのコミュニケーションが成立するものなのです」。
文:Avinash Rajagopal
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D
Dance(ダンス)


三宅のウィリアム・フォーサイス率いるフランクフルト・バレエ団とのコラボレーションは、フランス人の友人のひとりが三宅の開発したてのプリーツを見て発したひと言——「これはダンスのコスチュームに最適だ」——から始まった。かくして三宅は1991年、彼らの公演『The Loss of Small Detail』のためのコスチュームをポリエステル素材のマイクロプリーツでデザイン。この伸縮性に富むプリーツはダンサーの激しい動きに応えるばかりか、彼らの身体のシルエットを変幻自在に変えてみせた。そんなプリーツコスチュームをまとって踊る彼らの姿を見ながら、三宅は次のように思い至る。「体型も身長も様々なダンサーたちがこれほどまでに楽しそうに着こなしているのなら、一般の人々にも同じように楽しんで着てもらえるのではないだろうか」。
さらなる研究開発が進められた結果、1993年、『PLEATS PLEASE ISSEY MIYAKE』が産声を上げる。その後も三宅はダンサーや振付師とのコラボレーションを長年にわたって続けており、近年のものとしてはダニエル・エズラロウとのコラボレーションが挙げられる。
文:Paul Makovsky
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E
East meets West(イースト・ミーツ・ウエスト/東洋と西洋の出会い)


三宅いわく彼は “宙ぶらりんの世代”だ。「我々は本当にハリウッド映画とハーシーズのチョコレートバーで育った最初の世代でした。そして新たなアイディンティを模索し獲得しなければならなかった最初の世代でした」と彼はかつて記している。「我々はふたつの世界のはざまで夢を見ました」。とはいえ、三宅は自らが日本人であることに大変誇りを持っている。「私は日本で生まれ、和食が大好きで、日本文化にも精通しています」と彼はかつて述べている。「しかし私は日本だけにこだわっているのではありません。ましてや、日本や日本人について西洋の人々に知ってもらうために仕事をしているのではありません」。さらに三宅は、1960年代にパリで研鑽を積んでいるうちに、当初自分には不利であると思われたこと——西洋文化の伝統的精神や知識に欠けること——が実は強みになりえるのだと気づいたという。彼は次のように語っている。「この気づきによって私は解き放たれました。あとは前進あるのみでした」。そして彼は自身の本『三宅一生の発想と展開—ISSEY MIYAKE: East Meets West』(1978年、平凡社)のタイトルを引き合いに出して次のように表明している。「東洋と西洋は出会ってひとつになりました。両者を、これからの世代がさらによりよく融合させてくれることでしょう」。
文:Paul Makovsky
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F
Folding(フォールディング/折り)


「すべての始まりは一枚のスカーフでした」と当時を振り返るのは、三宅の長年の友人でコラボレーターのひとり、小池一子だ。素材の研究開発を手掛ける三宅デザイン事務所テキスタイルディレクターの皆川魔鬼子があるとき、三宅の前で一枚のポリエステルのスカーフを手に取り、折りたたんだ。「そのとき偶然、一生は閃いたのです」と小池は語る。これが『PLEATS PLEASE ISSEY MIYAKE』の誕生ならびに、その後も止むことなく続けられてゆくことになる折り技術研究開発の始まりだった。折りはもちろん日本文化のなかで発展し磨き上げられてきた伝統技のひとつである。三宅デザイン事務所ではこの日本の伝統技に、先端技術と新素材——たとえばヒートプレスによる折り加工や独自開発の再生ポリエステル——を組み合わせる。近年はパターン・エンジニアの山本幸子が三宅デザイン事務所の若手デザイナーらと共に、筑波大学大学院教授・三谷純の助力を得て数理研究ならびにソフトウエア開発を折り技術に応用しながら、さらなる研究開発を推し進めている。
文:Avinash Rajagopal
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G
Graphic Design(グラフィックデザイン)


グラフィックデザインにおける三宅のコラボレーターの中で最も著名なひとりは、日本人デザイナーでアートディレクターの田中一光である。田中は海外では数々のロゴデザインで知られ、『MUJI(無印良品)』のロゴも彼の仕事である。三宅と田中の出会いは1960年代のことで、以来ふたりは2002年の田中の逝去まで生涯にわたって親交を結んだ。田中は生涯に計640書籍のグラフィックデザインを手掛けたが、そのうちのひとつに、あの画期的な書籍『三宅一生の発想と展開—ISSEY MIYAKE: East Meets West』(1978年、平凡社)が挙げられる。田中はまたアートディレクターとして1994年から1997年にかけて『PLEATS PLEASE ISSEY MIYAKE』の全広告を手掛けた。2016年、三宅は田中にオマージュを捧げるべく『IKKO TANAKA ISSEY MIYKE』シリーズを発足させ、第一弾は田中の数ある傑作の中から3作品——カリフォルニア大学で開催された日本舞踊公演のポスター『Nihon Buyo』(1981年)、東州斎写楽の生誕200年展に出品されたポスター『写楽二百年』(1995年)、そしてグラフィックアート作品『太い記号のバリエーション』(1992年)——を選び、モチーフとした。縫製済みのコートに転写プリントされた後、プリーツマシンに通されて製品プリーツ加工されたこれらの田中の傑作(写真参照)は、その元々のフォーマットも、またその造形アプローチも二次元平面を特徴とするが、今や着用されることでボリューム(立体)とダイナミズムを獲得した。
文:Avinash Rajagopal
p15

H
Hirosima(ヒロシマ/広島)


原爆の話はしないと決めていました。「ピカドンデザイナー」なんて呼ばれたくなかった。原爆を言い訳にしたら情けないと思ったから。でも今、僕みたいな被爆の症状もある人間が話したら、少しは世の中が違ってくるのかもしれない。

広島に原爆が投下された70年前の8月6日。小学1年生だった僕は、広島市の隣、府中町に疎開していました。朝礼が終わって教室に入ったら突然、ドーンときた。衝撃で割れた窓ガラスの破片が頭に刺さって。びっくりしてね。
母のいる自宅は爆心地から2.3キロ。「うちに行きたい」と疎開先の家の人に言ったら、乾パンをたくさん持たせてくれた。その日のうちに、母を捜しにひとりで市内へと向かいました。人々が折り重なって焼け、水を求め小川に集まっている。
母に会えたのは翌日。治療を受けている場所を聞いて、会いに行きました。母は半身にやけどを負っていました。
「長男なんだから、安全な田舎に行きなさい」。母は私を見るとすぐに、そう言いました。僕を生き残らせるためでしょう。母は、気の強い、しっかりした人でした。近所の人や親戚からも慕われていました。
被爆の影響で、4年生のときに骨膜炎を発症しました。この病気で亡くなる人もいましたが、ペニシリンのおかげで助かりました。看病してくれた母は、僕の病状が良くなって間もなく、亡くなりました。
小学生の頃から絵が好きで、5、6年の担任だった長谷川進先生が指導をしてくれました。筆が買えず、指で絵を描いてましたね。デッサンを新聞に投稿したことも。先生は僕がデザイナーになってからも応援し続けてくれました。中学ではバスケットに興味が向きましたが、病気の影響で足が悪くなり始めていました。

広島だけでなく、福島では原発事故で悲惨な思いをした人たちがいる。世界はこれからどうなっていくのか。吉永小百合さんは原爆詩を読み続けていて、本当に素晴らしい。僕もやむにやまれぬ気持ちで、2009年にオバマ大統領に広島訪問を呼びかける手紙を書いた。有名無名関係なく、発言されている方はすごい。一人一人がどう生きていくかを問い直す時代なのです。

このテキストは2015年12月6日付読売新聞に掲載された『初めて語る被爆体験 デザイナー三宅一生の生き方』からの抜粋です。
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I
Irving Penn(アーヴィング・ペン)

学生時代を送った1960年代、三宅はヴォーグ誌でアーヴィング・ペンの写真を知ってペンの仕事に崇拝の念を抱いた。「ペンさんの写真は明らかにものすごく先を行くものでした」と三宅は、ペンとのコラボレーション書籍『Irving Penn Regards the Work of Issey Miyake/アーヴィング・ペン 三宅一生の仕事への視点』(1999年、Bulfinch Press/求龍堂)のなかで語っている。「彼は他の写真家とは全く異なる視点で服を捉える最も傑出した写真家であり、私は彼と何か一緒に仕事ができたらという思いを強くしました」。三宅とペンは1986年にコラボレーションを開始し、1999年までに250点にのぼる写真作品を生み出した。撮影にあたってはペンには完全な芸術的自由が与えられ、三宅が信頼を寄せる同僚である北村みどりと金井純がコーディネートを担当し、メイクアップアーティストのTyen(ティエン)とヘアスタイリストのJohn Sahag(ジョン・サハグ)を加えて撮影が行われた。「年に2回、パリ・コレクションの後、私は三宅とふたりで、ペンさんに撮影してもらうために私がニューヨークへ持って行く服選びを行ったものでした」と北村は語る。「私にはペンさんの撮影は毎回驚きの連続でした」。彼女は自分の良く知る三宅の服が、ペンのレンズを通して様変わりするのを目の当たりにした。「それは私にはまったく新しい世界でした。三宅も私の持ち帰った写真を見ると毎回決まって驚嘆し、感動したものでした」。北村の発言を受けて三宅は次のように続ける。「私はずっと、私の服を見、私の声を聞き、そして私にその人自身のクリエーションを通して答えを返してくれる人を探し求めていました。ペンさんの目を通して捉え直された私の服は新たな生命を得て、新しい視点を私にもたらしてくれます。そのようにして彼は私に、自分の仕事について多くのことを気づかせてくれるのです。」ペンの写真は、一度も撮影に立ち会うことのなかった三宅に、自らのデザインをまったく新鮮な目で見直す機会を与えたのだった。
文:Paul Makovsky
p17

J
JOY(ジョイ/喜び)


世界中の多くの批評家が「三宅一生はファッションデザイナーではない」という結論にそれぞれ独自に達している。「三宅は自らの活動を“ものづくり”と呼んでいます」と明言するのはジャーナリストのAngelo Flaccavento(アンジェロ・フラッカヴェント)で、さらに彼は「三宅の仕事はファッションデザインの本質である、実用性とスタイルをいかに両立させるかという次元をもはや凌駕してしまっている」と述べる。そのような三宅の仕事に際立って認められるものは、衰えることを知らない断固とした楽観主義だ(写真参照:この1976年春夏コレクションの写真からもそのことがはっきりと見て取れる)。しかも彼は自身のこのような楽観主義的思考態度を、自らの使命と結びつけて説明してきた。なぜなら、日本語の“服”には奇しくもポジティブな意味合いを持つ同音異義語があるからだ。「日本語には服を表す言葉が3つあります。まず“ようふく”は西洋の服のことを言います。次に“わふく”は日本の伝統的な着物のことを指します。そして“ふく”は“服”を意味します」と三宅は、1986年にTime誌に語っている。「“ふく”はまた “福”、すなわち幸運や幸福を意味する言葉でもあります。ときに人から何の仕事をしているのか、何をつくっているのかと尋ねられることがありますが、そのようなとき私は洋服をつくっているとも和服をつくっているとも答えません。“ふく”をつくっていると答えます」。
文:Avinash Rajagopal
p18

K
Kuramata(倉俣史朗)


早くから倉俣のことを卓越した新しい才能として注目してきた三宅は、1976年、倉俣に東京・青山のFROM-1st(フロムファースト)ビルのISSEY MIYAKEブティックのデザインを依頼した。倉俣は服を平面に陳列することを提案し、アルミハニカムパネル製の、表面は木目のテーブルをデザインした。しかもこのテーブルは壁から片持ち梁で支えられていたため、さながら宙に浮いているかのようなたたずまいを呈していた。さらに倉俣は、ニューヨークの高級老舗デパートBergdorf Goodman(バーグドルフ・グッドマン)のブティックにはテラゾ(人造大理石)を大々的に採用、一方パリのショップは壁にファブリックでドレープを施した。最終的に、倉俣はその生涯を通じて三宅のために100店舗以上のショップデザインを手掛け、加えてオフィスのインテリアや家具のデザインまでも行った。三宅は倉俣の逝去後だいぶ経ってから、倉俣がデザインした青山界隈の2店舗を、追悼の念を込めてメンテナンスした。「僕らが活動を始めた1960年代初頭は、日本も敗戦から立ち直り、経済復興の真っ只中でした」と三宅は、2011年の展覧会『倉俣史朗とエットレ・ソットサス』のステートメントのなかで述べている。「優秀なデザイナーがたくさんいましたが、中でも倉俣さんは私にとってヒーロー的存在でした。たとえば彼の素材づかいです。どんな素材も彼の手にかかると、見たこともない魅力的なデザインに生まれ変わっている。人間的にも、仕事の上でも僕たちは皆、倉俣さんを心から尊敬していたのです。日本のデザインはギュッと詰まって無駄がなく合理的ですが、倉俣作品には不思議な空気感が満ちていて、僕らには表現できない世界なのです。彼と出会わなければ、僕の仕事も違っていただろうと思います」。
文:Paul Makovsky
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L
Light and Shadow(ライト・アンド・シャドウ/光と陰:陰翳)


「既に行燈式の電燈が流行り出して来たのは、われわれが一時忘れていた“紙”と云うものの持つ柔らかみと温かみに再び眼ざめた結果であり」と小説家・谷崎潤一郎は、1933年発表の金字塔的エッセイ『陰翳礼賛』のなかで述べている。谷崎はこのエッセイを通じて、光と陰に対する日本古来の意識と、西洋化によってもたらされた近代的な照明のあり方を鮮やかに対比してみせた。彼の指摘は今日に至ってもなお有効だ。そして三宅は、陰あるいはニュアンスを意味するこの“陰翳”という言葉を、イタリアの照明器具メーカーArtemide(アルテミデ)と恊働で開発した照明器具のコレクションに冠した。その『陰翳IN-EI ISSEY MIYAKE』の折りたためるランプシェードは、『132 5. ISSEY MIYAKE』の研究開発から得られた成果を応用したもので、しわのよった紙は折りたたんだり折りを開いたりするとき螺旋を描く傾向があるという特性が活かされている。最終的にランプシェードに用いられた素材は紙ではなく、100%ペットボトルのリサイクルから生まれたポリエステル不織布であるが、それは谷崎が件のエッセイで讃えた、紙の持つ柔らかみと温かみを有している。というのも、このランプシェードは、まさに紙づくりと同じプロセスによって製紙工場でつくられているのだ。
文:Avinash Rajagopal
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M
Material(マテリアル/素材)


三宅率いる三宅デザイン事務所は絶え間ない素材革新でその名を轟かせてきた——自然あるいは合成の新素材開発から、素材を組み合わせてよりなめらかで光沢のあるファブリックや、より風合いのあるファブリックを実現する方法の開発に至るまで。「ファブリックは木目のようなもので、それに逆らうことはできません」と三宅は1986年にTime誌に語っている。「ときどき私がしたくなること、それが何かお分かりですか? ファブリックに目を近づけて、私がすべきことをファブリックから教えてもらうのです」。新しいファブリックを用いる時は必ずその新しいファブリックから学ばなければならないと三宅は考えている。「学べば学ぶほど、そのファブリックについて多くの知識が得られます」と彼は述べ、続ける。「ファブリックの重さ、密度、垂れ方、そうしたことのすべてが、そのファブリックの運命を決定づけるのです」。三宅は、服を着る人々が「表現の自由とそれによってもたらされる喜び」を享受できるように、工場と恊働して素材の段階から服づくりをスタートさせることこそ、デザイナーの使命だと考えている。
文:Paul Makovsky
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N
Noguchi(イサム・ノグチ)


少年時代、三宅はイサム・ノグチが広島の原爆犠牲者追悼のためにデザインした平和大橋をよく通った。橋の欄干もノグチのデザインで、三宅はそれを見て「これがデザインというものなのだ」と感得した。彼は自分に果たしてこのノグチのデザインのようなレベルに到達できるだけの才能があるのかどうか分からなかったが、しかし挑戦してみようと決意した。「ノグチの表現は大変シンプルでありながら、驚きに満ちています」と三宅はあるインタビューで語っている。「彼は私のヒーローでした」。ノグチの人間主義的な理想と創造力に胸を打たれた三宅は、書籍、写真、ドローイングを通してノグチの仕事を追い求めた。服づくりの研鑽を積むべく1965年にパリに渡った際、三宅は日本からわずかな荷物しか携えて行かなかったが、そのわずかな荷物のひとつが一枚のノグチの写真だった。1997年、三宅はノグチの彫刻と照明作品を盛り込んだ展覧会『イサム・ノグチと三宅一生 アリゾナ』(写真参照)のゲストキュレーターを務めた。この展覧会は日米の文化の交わりを考察するものであるとともに、彼の師であり親友であるノグチへのオマージュでもあった。
文:Paul Makovsky
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O
Olympics(オリンピック)


ソビエト連邦崩壊を受けて独立をかちとったリトアニアは、1992年に初めて国家としてオリンピックに参加した。三宅はリトアニア・オリンピックチームの専属ドクターに就任したカリフォルニアの形成外科医Edward Domanskis(エドワード・ドマンスキス)博士を介してある要請を受けた。それはリトアニア・オリンピックチームの公式ユニフォームのデザインをお願いできないかというもので、かくして三宅はランダムプリーツのフード付きジャケットに、Tシャツ、シルバーのパンツ、帽子、シューズから成るユニフォーム一式を創造した(写真左から三番目)。ジャケットはカラー(襟首)に国旗と国名があしらわれており、ジッパーを上げるとそのカラー(襟首)部分がフードになるというものだった。そして国名と国旗はもとより、オリンピックのロゴとフラッグも、プリーツひだの開閉を充分に考慮したうえでプリントされている。このユニフォームはベーシックなルックで親しみ深いものであったが、しかしその服づくりは何もかもが斬新だった——溶銑を組み込んだ新しい裁断技術に、新しい軽量ポリエステルファブリック、新しい大きなサイズのシッパー、そして新しいプリーツ加工技術。三宅いわく「これは大変な仕事で、連日朝から晩までかかりきりでした。結果、我々は非常に多くのことを学び得ました」。
文:Paul Makovsky
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P
Pleats(プリーツ)


プリーツによる服づくりにあたって三宅の念頭にあったのは、作り手よりも着る人のことだった。彼は軽くて手入れの容易な服の創造を目指していた。そのためには単に最新テクノロジーを採用するだけではなく、従来の手法や素材の再検討も必要だと感じた。80年代後半にプリーツの研究を開始した彼は、斜めにプリーツがかけられ4つに折りたたまれた軽量のポリエステル・シルクのスカーフに着想を得て、現代の技術工学に立脚した新しいプリーツ技術の研究を進めた。結果、それはまったく新しいプリーツ技術ならびに『PLEATS PLEASE ISSEY MIYAKE』コレクションの誕生に結実する。三宅にとってPLEATS PLEASEは、クチュールでもファッションでもなく、シンプルに“服”と見なされるべきものだ。「PLEATS PLEASEの開発にこぎつけてようやく、私は“デザインの何たるか”を真に悟りましたと三宅はかつて記している。「PLEATS PLEASEを世に送りだして、ついに私はデザイナーになれました」。
文:Paul Makovsky
p26

Q
Quotidian(クォティディアン/日常)


デザイナーとして駆け出しの頃、三宅は当時白州正子が東京・銀座に構えていた染織工芸の店『こうげい』に足繁く通って、日本の伝統技術や素材について学んだ。また彼は三宅デザイン事務所のチームと共に、日本各地の小さな工房を訪問して織りや染めの技術を見て回った。そして彼は、たとえば原色の幾何学柄キルト素材『刺し子』をはじめ、『しじら織り』や『鬼楊柳』といった日本の伝統的なファブリックに興味を持つようになった。さらに荷馬車引き(カート・ドライバー)や大工がかつて着ていた日々の作業着にも興味を惹かれ、これらの服の美や機能性について研究した。「服というのは万人のためにあるべきものだと悟ったのは1968年、フランスのパリで五月革命に遭遇したときでした」と三宅はかつて述べている。「そのとき私は悟ったのでした。私のつくるべきものはシンプルな日常着であると——ジーンズとTシャツに匹敵するような服であると」。
文:Paul Makovsky
p27

R
Reality Lab.(リアリティ・ラボ)


「デザインの役割は発想を現実化することです。そして徹底的に実験研究を重ねて人々に使い心地の良い製品を届けることです」と三宅は、自らの事務所内に立ち上げたReality Lab.の活動を説明するにあたって述べている。2007年に設立されたReality Lab.は、若手デザイナーとベテランのエンジニアから成る総勢11名のチームで、新しいものづくりの方法を研究している。このラボの最初の成果は、2010年に発足したコレクション『132 5. ISSEY MIYAKE』である。名前の“132 5. ”という数字は、このコレクションがその服づくりから人々に着用されるまでに辿る次元の変遷を表している。これに合わせ、Reality Lab.は再生ポリエステル100%の素材を開発(写真参照:メンバーが着用しているシャツの素材がそうである)。また、『立体折り紙』のソフトウエア・プログラム開発者でコンピューターサイエンティストの筑波大学大学院教授・三谷純との恊働を通して、『132 5. ISSEY MIYAKE』のみならず2012年発足の折りたたみ式照明器具コレクション『陰翳IN-EI ISSEY MIYAKE』においても継続的に新シリーズを発表し続けている。
文:Avinash Rajagopal
p28

S
Skin(スキン/皮膚)


1980年秋冬コレクションで発表された『プラスティック・ボディ』(写真参照)は、その後三宅が5年にわたって取り組む、伝統技術ならびに先端技術を駆使した彫刻さながらの服づくり『ボディ』シリーズの最初の作品である。繊維強化プラスティックを型ぬき成形(モールド)してつくられたこの『プラスティック・ボディ』は大量生産可能な、いわば第二の皮膚である。書籍『ISSEY MIYAKE BODY WORKS』(1983年、小学館)のなかで、アートディレクターでアートプロデューサーの鶴本正三は2枚の写真——1枚は若い女性の、もう1枚は年配の女性の裸の胴部——を比較しながら、三宅のデザインにおける皮膚の意味の重要性を解説している。「若い女性のなめらかで張りのある皮膚は、しわの寄ったざらざらした年配の皮膚と対照をなす」と書いているのはヨシコ・イワモト・ワダだ。「三宅にとって皮膚は人生の記録、すなわち生きてきた時間の証として刻まれるしわを呈する二次元平面なのだ」。
文:Avinash Rajagopal
p29

T
Tattoo(タトゥ)


1971年に三宅がニューヨーク・コレクションで発表した『タトゥ』は、日本の伝統的なタトゥー技術に着想を得て、当時急逝して間もなかった音楽界のふたりのレジェンド、ジミ・ヘンドリクスとジャニス・ジョプリンへのオマージュとして創造されたジャージーの服のシリーズである。
文:Paul Makovsky
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U
UFO(ユーフォー/フライング・ソーサー)


平面に置かれた状態ではプリーツのかかった円盤にすぎないように見える三宅のカラフルなプリーツドレス『フライング・ソーサー』は、しかしながら独自のプリーツ加工が施された独自開発のポリエステルファブリックと巧みなパターンの採用により、ひとたび着用されると全身をすっぽりと包み込み、さながら繭(まゆ)彫刻とでも言うべきフォルムを呈する。しかもこのドレスは自宅で洗濯可能で形くずれせず、蛇腹のように簡単に折りたたんで円盤状にしまうことができる。このようなコンセプトを持つこのドレスは日系アメリカ人アーティスト、イサム・ノグチへのオマージュである。三宅には、スペースとバランスについてのすべてをノグチの仕事から教えてもらったという感謝の思いがある。ノグチの彫刻的な照明器具コレクション『AKARI(あかり)』同様、この三宅のチューブドレスも極めて繊細かつ精巧に見える。
文:Paul Makovsky
p31

V
Volume(ボリューム/立体)


アーヴィング・ペンが撮影し、田中一光がレイアウトとタイポグラフィーを担当したこの見事な1987年春夏コレクションのポスターは、同コレクションの2作品『バルーン・レインコート』と『バーズ・ビーク(鳥のくちばし)・コットン・キャップ』を主題として表現したものだ。ひとたび着られると服が平面からボリューム豊かな立体へと変容するのは三宅の服づくりの当初からの基本的特徴で、それは彼の最新の仕事のひとつ『132 5. ISSEY MIYAKE』でも変わらず追求されている。そしてペンはこのレインコートのボリュームをよりいっそう強調することで三宅の服の特徴を際立たせた。
文:Avinash Rajagopal
p32

W
Water(ウォーター/水)


1984年秋冬コレクションの『ウォーターホール・ボディ』は、ジャージー素材を部分的にシリコン・コーティングすることで滝水のような流動感のあるドレープを実現した服である。水はインスピレーション源として三宅の仕事に大変よく認められるものである。1992年に発表された彼の初香水の名は実に『L’EAU D’ISSEY(ロードゥ イッセイ:一生の水)』だった。三宅のこれまでの説明によれば、彼の水へのこだわりは個人的なものである。彼は以前、嬉々として次のように語っている。「私が心底魅せられていること、それは太陽の日差しを浴びて温もった海でシュノーケル・ダイビングを楽しむことです。海中で体を伸ばし、私の傍らを魚がすっと通り過ぎてゆくのを眺めて過ごすことは夢見心地の時間です」。
文:Avinash Rajagopal
p33

X
XXIc(21世紀)


考古学ならびに博物学研究で21世紀を表すのに用いられる “XXIc”は、東京の21_21 DESIGN SIGHTにおいて2008年に開催された展覧会『21世紀人』の鍵となった記号である。三宅一生がディレクターを務めたこの展覧会は、深刻な環境問題ならびに資源の枯渇に直面する時代の我々の身体、生活、デザイン、ものづくりの可能性を探求するもので、「この新世紀、我々はどこに向かうのか? 我々の希望は何か?」そして「我々はどのように未来を築くのか?」を問いかける内容だった。21_21 DESIGN SIGHTディレクターを共同で務める佐藤卓と深澤直人にも協力を仰ぎながら、三宅はこの展覧会で総勢11名の建築家、デザイナー、アーティスト——イサム・ノグチ、ロン・アラッド、nendo、藤原大+ISSEY MIYAKE Creative Room、外間也蔵、そして三宅自身も含む——の仕事に脚光を当て、環境と新技術について探究した。たとえばnendoはPLEATS PLEASEの製造工程で生じる紙を再利用した椅子を出品し、また藤原大+ISSEY MIYAKE Creative Roomは『DYSON A-POC』シリーズを用いたインスタレーションを発表した。
文:Paul Makovsky
p34

Y
Yokoo(横尾忠則)


横尾忠則はポップカルチャーならびにサイケデリックカルチャーの影響を日本のアートシーンにもたらしたことで知られる日本人アーティストである。「1960年代と1970年代に自分が日本文化の各方面に与えた影響を大いに自負しています」と彼は2015年、ロンドンのテート・モダンによるインタビューの際に述べ、自らの関わったデザインから映画出演に至るまでの全分野を数え上げたが、その中にはテキスタイルの仕事も含まれていた。「三宅一生とは45年にもわたってコラボレーションを続けてきました」と語る横尾と三宅、このふたりの革新者の出会いは1971年、ニューヨークのジャパン・ソサエティで開催された三宅の初コレクションに遡る。そしてふたりのコラボレーションが本格的に始まったのは1977年のことで、以来横尾は三宅のパリ・コレクションのインビテーションデザインを毎シーズン欠かさず手掛け、さらにメインコレクションも含めたいくつかの三宅ブランドのために時には服のプリントデザインにも携わってきた。2005年には、ふたりのクリエイティブコラボレーションの成果を展示紹介する展覧会『横尾忠則が招待する イッセイミヤケ パリ・コレクション 1977→1999』(写真参照:展覧会ポスター)が開催された。
文:Avinash Rajagopal
p35

Z
Zoomorphic(ズーモーフィック/動物のかたち)


三宅は時々、サルやツバメ、ヒトデといった動物を基にしたデザインを行ってきた。たとえば彼の2001年秋冬の『A-POC Zoo』コレクションは、世界じゅうどこを探しても他所ではお目にかかれない風変わりな動物たちが集まっていて、さながら動物クラッカーのよう。『タートル(亀)』の服は、垂直、水平、もしくは中央の開き部分のどこからでも手足を出し入れして着ることができる。このコレクションには他に『オクトパス(タコ)』、『モンキー(サル)』、『テディベア』、『パンサー(ヒョウ)』などの服がある。
文:Paul Makovsky