MIYAKE ISSEY展 三宅一生の仕事

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Intramurosn°183 March/April 2016

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intramuros 183号

巨匠 三宅一生の仕事


ありとあらゆる分野に革新の情熱を注ぎながら、そして動く身体に深く魅了されながら、手仕事と先端技術の対話的融和を止むことなく追求し続けてきた三宅一生は、称賛に値する独創的なものづくりの人生を歩んできた。吉岡徳仁と佐藤卓が会場デザインを手掛けた国立新美術館で開催中の『MIYAKE ISSEY展 三宅一生の仕事』は、三宅の45年にも及ぶ仕事の全体像を探る展覧会である。
三宅一生は多摩美術大学グラフィックデザイン科の卒業である。(デザイナー深澤直人は後輩に当たる。)それはつまり、彼が最初に受けたデザインの専門教育はモードではなかったということだ。このことが彼独自の服づくりのアプローチを生みしている。実際、彼はしばしば次のように発言している。「服をデザインすること、それはすなわちプロダクトをデザインすることです」。
パリでオートクチュールを学んでいたさなかに1968年のフランス五月革命に遭遇し、次いで渡ったニューヨークでヒッピームーブメントに出会った三宅は、若者たちによる既存の価値観への異議申し立てが社会に変革をもたらしてゆくさまを直に体験した。悲劇的な過去の記憶——広島原爆投下時、彼は小学生だった——がバネとなり、三宅の中で断固とした決意と情熱が育まれた。絵画、彫刻、建築に深い関心を寄せ、鋭い鑑識眼を備えた三宅を広島の少年時代に魅了したのは、1951年にイサムノグチのデザインにより架けられた平和大橋(三宅曰く「ノグチは私のヒーローでした」)で、この橋との出会いが身体とフォルムについての研究の素地をつくった。三宅は正真正銘のデザイナーである。デザインとは彼にとって、社会を変え、人々の日常生活をより良いものにするためのひとつの方法である。1970年に自身の事務所を設立して以来彼はずっと、服を一つの言語、すなわちひとりひとり異なる人々のアイデンティティーや特徴を尊重しながら各人の身体を包む普遍的なフォルムとしての服づくりを続けてきた。彼は、着る人の動きやすさを考慮・尊重しながら、言わば“しなやかな建築”を創造しているのだ。
日本の東北地方の織物業の衰退と、このままでは日本の伝統技術の消滅が危ぶまれることに危機感を覚えた三宅は、手技と工業生産技術を融合させることによって、これまでにないような新しいタイプのテキスタイルの開発を決意した。その第一弾となったコレクションが『PLEATS PLEASE(プリーツ プリーズ)』である。独自開発のポリエステル生地に熱処理でプリーツを施したこの服は機能性に優れ、動きの自由を全面的に保証することによって身体と服との関係に革命を起こした。しかも、非常に多くの人々に届けることのできる大量生産をも実現したのだった。「折りたたむこと、それはコンパクトにすること。折りを開くこと、それは広げること、すなわち着る人の身体のシルエットを浮かび上がらせながら存在感とボリュームを大いに示すこと」。
後に続く二つのコレクションは先端技術を駆使して開発されている。1997年発表の『A-POC(A Piece of Cloth)』はコンピューターテクノロジーを駆使することで、予め服が編み/織り込まれたファブリックを一本のチューブ状に編み/織りあげた後、そのファブリック上に描かれている点線に沿ってハサミを入れると服が誕生するというプロセスである。この技術により布の無駄は最小限となり、縫製は不要となる。こうして一枚の布から切り取られた服はTシャツ感覚で着られ、そのシルエットは着る人の身体のかたちに応じて創出される。まさにこれぞ、“ノマド服”だ。ファブリックにはさまざまな柄や模様を予め編み/織り込むことも可能である。1998年にパリのカルティエ現代美術財団で開催された『ISSEY MIYAKE Making Things』は、今日最も魅力的なクリエイター三宅の、モードとデザインとアートの領域を自由に横断する独創性に焦点を当てた展覧会だった。
時を超越すべくデザインされた三宅一生のクリエーションは通常のシーズンサイクルとは無縁である。彼のものづくりのサイクルを決定づけているのは研究開発がもたらす成果である。まさにこれが彼の新たなものづくりのための基本方針である。2010年にパリのギャラリー・クレオにおいて発表された『132 5. ISSEY MIYAKE』は、三宅が彼の研究開発チーム、すなわちテキスタイルエンジニア菊池学とテクニカルエンジニア山本幸子を中心とするReality Lab.と共に創造したコレクションである。コンピューターを用いた幾何学形状モデリングの専門家で三次元構造の数理メソッドの研究者、三谷純との出会いがこの新コレクション創造の端緒となった。かくして平らに折りたたまれた二次元の一枚の布は垂直に持ち上げられると広がって三次元となり、幾何学形の折りから成るボリューム豊かな立体の服となる。素材として用いられている再生ポリエステル繊維はペットボトルなどを再生して作られたもので、これもまた研究開発の成果である。さらに、この132 5. ISSEY MIYAKEの構造原理を応用した照明器具のコレクション『陰翳IN-EI ISSEY MIYAKE』がある。イタリアのアルテミデ社から製造販売されているこのコレクションは2014年にADI(イタリア工業デザイン協会)から『Compasso d’Oro(コンパッソ・ドーロ)』賞を授与された。そして2016年、セラミックへの関心がきっかけとなって三宅はフィンランドのデザイン企業Iittala(イッタラ)社とのコラボレーションに乗り出す。同社のデザインディレクター、ハッリ・コスキネンとの恊働のもと、手技とテクノロジーを融合させる自身独自の手法を駆使してホームウエアを開発する。
革新と数学的効果に秀でた三宅は人間の身体を繊細かつ敬意のこもった眼差しで見つめる。そして彼は人々を驚きで魅了する。単に技術や服を創造するだけでは充分ではないのだ。三宅はものづくりの現場を積極的に社内のデザイナーらに任せる。情熱的なパッサー(*サッカーでパスを出す司令塔)である彼はまた、社外の才能豊かなデザイナーたちとも積極的に恊働する。かくしてロンドンと東京の三宅のショップは吉岡徳仁がデザインを手掛けた。過去にはグエナエル・ニコラやロナン&エルワン・ブルレック兄弟がパリ右岸のショップをデザインしたが、残念なことにそれらはもはや現存していない。パリ左岸のラスパイユ通りにかつてあった倉俣史朗デザインの三宅のブティックの、ブロークンガラスの階段の欄干は今でも忘れられない。さらに三宅は自身の時計ブランドにおいてスイスのイブ・ベアール、フィンランドのハッリ・コスキネン、そして日本の深澤直人らと恊働し、新世代の才能を世に紹介する役割も全面的に引き受けている。2009年、フランス人デザイナーのマチュー・ルアヌールが世界各国の年齢を三次元ピラミッドで造形表現した『L’âge du Monde(世界の年齢)』)を陶芸家クロード・アイエロとの恊働により創造、この黒エナメルコーティングのクレイ(粘土)作品はパリのロワイヤル通りにある三宅の旗艦店において展示された。ちなみにルアヌールは2006年に香水「L’EAU D’ISSEY(ロードゥ イッセイ)」のパッケージデザインを手掛けている。
三宅が自身の強い信念であるデザイン文化の継承および共有を具体化させたプロジェクトが、2007年オープンの日本初のデザイン発信拠点21_21 DESIGN SIGHTであろう。安藤忠雄が手掛けた建築は東京ミッドタウンの只中で存在感を放っている。そしてここではアーヴィング・ペンから吉岡徳仁、そしてつい最近『建築家 フランク・ゲーリー ”I have an idea”』展を開催したばかりのフランク・ゲーリーに至るまで、国際的な写真家、デザイナー、建築家の展覧会が次々と企画開催されている。
東京国立新美術館での『MIYAKE ISSEY展 三宅一生の仕事』はまさに、身体に動きの自由を与えるべくフォルムを変幻自在に変える彼の独創的な服づくり哲学とその今日までの歩みに敬意と感謝を表する展覧会である。デザイナー吉岡徳仁とグラフィックデザイナーの佐藤卓によってデザインされた順序立った展示空間のなかで伝統と革新が対話する。求龍堂より刊行の展覧会公式図録兼書籍にはフォトグラファー岩崎寛によって撮り下ろされた展覧会全出品作品の写真が収められている。

文:Chantal Hamaide(シャンタル・アメド)
『MIYAKE ISSEY展 三宅一生の仕事』は、六本木の東京国立新美術館にて2016年3月16日より6月13日まで開催。