3月18日付
独創的なデザイナー三宅の仕事を讃える展覧会が東京で開幕
日本のデザイナー三宅一生の40年余りにも及ぶ仕事と方法論を探る大展覧会
文:Angelo Flaccavento(アンジェロ・フラッカベント)
永遠であること、それはすべてのデザイナーが密かにあるいは公然と自らの仕事に願う特質だ。しかしファッションは他のデザイン分野よりも時代との結びつきが強いので、永遠性を獲得することは常に至難の業のように見える。服あるいはアクセサリーには常に何か特定の時期とのつながりが見て取れるものだ。なぜならファッションは詰まるところ、人が身につけるものの歴史だからだ。
とはいえ中には洞察力に優れた独創的なファッションデザイナーたちがいて、彼らが変革をもたらす。そうした巨人の一人が三宅一生である。彼は時代の潮流に独り抗いながら時代精神を捉え、しかしひとたび捉えたらそこに留まることなくすぐにその先へと進む。日本人デザイナーの彼は40年余りのデザイン活動を通して人々の日常生活をより簡便にすべく、フォルム、素材、テクノロジーを統合した徹底的なソリューションリサーチに打ち込み、歴史——服飾史同様、彼の個人史——の特定の時代に結びつきながらも同時に輝かしいまでの永遠性を誇る、独自の衣服言語を創造した。
去る火曜日に東京国立新美術館の広大な展示空間で開幕した、三宅の全仕事を体系的に捉える『MIYAKE ISSEY展 三宅一生の仕事』(会期は6月13日まで)は、自らの仕事を「Making things(ものづくり)」と自明の言葉で定義することを好む三宅の仕事の独創性が一目瞭然に見て取れる展覧会である。(ちなみにMaking Thingsはかつてパリで開催された記念碑的展覧会のタイトルでもある。)
偉大なるデザイナー三宅の仕事をおおまかに3つの年代に分けて展示する本展は、しかしながらそうした時代分けの枠に留まらない、彼の真に時を超越したものづくり思想の全体像を紹介する場となっている。ゆえにたとえば和紙のコートや、正方形の布をバイヤスにつないだハンカチーフドレス、あるいは折り紙のように折りたためるトップやスカート、さらにはサーキュラーコートを特定の時代に帰属させることは適切ではない。グレース・ジョーンズがまとった太古の時代を永遠化するファイバーグラスのボディや、1982年に『Artforum(アートフォーラム)』誌の表紙を飾った、超神秘的で熱狂的なあの時代を象徴する、巨大なショルダーと気高い逞しさが特徴のラタンのボディでさえ、今日、透明のプレキシガラスのマネキンに着せられているのを目にすると、それらはラディカル・デザインのシンプルなビジョンのように見える。
目にするものすべてが永遠の現在に息づいているように見えるこの展覧会は、単にこれまでの業績を称える回顧展の類とはまったく異なるものだ。なぜなら本展は三宅独自の服づくりアプローチを、彼の創造活動の道のりの縦断面図を通して鮮明かつインタラクティブ(双方的)に紹介するものであるからだ。そしてその彼の服づくりのアプローチは彼が仕事を開始した当初から基本的に変わっていない。三宅の仕事はたったひとつの問いに答える:身体の動きの自由を保証しながら二次元である一枚の布を三次元である身体にいかにまとわせるか、である。この問題解決に三宅はシンプルなフォルムの追求と同時にテキスタイルの開発を通して取り組みながら、己および己のエゴためではなく着る人各人およびその人のニーズを優先する服を創造する。三宅の服づくりは一言で言えば、その手法を常に進化させながら、着るという人間の最も根源的なニーズのひとつに応えるものだ——多くのデザイナーにとっては呪しい問題である“着心地の良さ”こそ、服づくりの核心であることを知らしめながら。「私は常に現実に則したものづくりを目指してきました」と三宅は、展覧会の開会式で、友人の元仏文化相ジャック・ラングからフランス政府レジオンドヌール勲章コマンドゥールを授与された際に述べた。「私の仕事は一貫しています。なぜなら人間のニーズは基本的にいつの時代も変わらないからです。私はあらゆる年代の人々がこの展覧会を見てわくわくしたり、面白がってくれたらと願っています」。なんて軽やかな願いだろう。事実、展覧会もまさに見事なまでに軽やかに実現されている。