MIYAKE ISSEY展 三宅一生の仕事

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Flash Art InternationalNo.306 2016

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36ページ 「葉っぱプリーツ」
1990年春夏コレクション(1989年)
撮影:岩崎寛
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38ページ 「コロンブ」
1991年春夏コレクション(1990年)
撮影:岩崎寛
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39ページ 「バス(馬尾毛)」
1990年秋冬コレクション(1990年)
撮影:岩崎寛
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40ページ 「ウォーターフォール・ボディ」
1984年秋冬コレクション(1984年)
撮影:岩崎寛
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41ページ 「タトゥ」
1971年春夏コレクション(1970年)
撮影:岩崎寛
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43ページ 「麻のジャンプスーツ」
1976年春夏コレクション(1975年)
撮影:岩崎寛

永遠 ——
それはドレスの飾りなどではなく、いくつかのアイディア

エミリー・シーガルによる
三宅一生のデザインについての考察

三宅一生の「ボディ」シリーズの中でも特に象徴的なイメージのひとつは、髪を後ろに撫でつけ、目元に赤いアイシャドーを施し、媚びるところが一切ない表情をしたモデルが、レザーのような素材のプリーツスカートの上に昆虫の外骨格を思わせる「ラタン・ボディ」をまとったものである。これは身体から抜け出た硬い殻のようなトルソのシリーズ、すなわち三宅のデザインチームが当時行っていた身体の動きとフォルムについての研究の成果として誕生した仕事のほんの一例であるが、三宅の1982年春夏コレクションの一翼を成すこの「ラタン・ボディ」は同年冬に「Artforum(アートフォーラム)」誌の表紙を飾り、アートとモードがひとつに収斂する先駆けとなった。すなわちこの服は、モードを正式にアートとみなすという言わば決定的なお墨付きを得る契機となったのだった。同誌のエディトリアルの中でイングリッド・シシーとジェルマーノ・チェラントは、この「ラタン・ボディ」を「さまざまな徴候の現代的な集合体」と評し、「削ぎ落としと肉付けの、硬さと柔らかさの、自然なものと加工されたもののあいだにあるものを(略)、また大衆志向的な前衛の特徴を持った、過去と未来との、あるいはテクノクラシー下で個人の置かれている状況との、対話のようなものを表している」と述べた。三宅の服は、ひだと折り、ハイテク素材の採用、そして体の周りをふんわりと包む汎用性の高い構造を備えていることで名高い。「誰もが着られる服をつくる」というユートピア的な使命を原動力に実現されてきた三宅の服は、モードが他の分野とまさに見事な融合を果たすことが可能であることを実証してきた。本年、東京の国立新美術館において、三宅の仕事の全体像を探る最新かつ大規模な展覧会が開催される。それは本エッセーの主題ではないが、執筆のきっかけとなった。(過去にも三宅は、1983年東京のラフォーレ・ミュージアム飯倉、1988年パリの国立装飾美術館、1998年パリのカルティエ現代美術財団、2001年ベルリンのヴィトラ・デザイン・ミュージアムにおいて大規模展覧会を開催している)。
目下モード界はかつてないほど猛烈に他の業界と異種交配している。たとえば、プラダ財団やルイ・ヴィトン財団が新たに美術館をオープンしたことは記憶に新しい。また昨秋はセリーヌが、アーティストで詩人のジョン・ジョルノのパレ・ド・トーキョーでの展覧会の告知支援として特別ポスターを制作し、それをパリの街角の至るところに貼り巡らした。アップルウォッチ エルメスコレクションの愛用者たちは2014年のアンジェラ・アーレンツのバーバリーからアップル社への転職を思い出すとぞくぞくするにちがいない。この彼女の転身はファッション業界のヘッドハンター、フロリアン・ド・サンピエールに「クリエイティブ・リーダー」の誕生と企業人CEOの凋落を宣言させることとなった。
その意味で、三宅一生がこのようなゲームの遥か先を常に行き続けてきたことを思うと、何とも言えない気持ちになる。1971年、彼はニューヨークに正式なプレスオフィスを構え、国際的に活躍する日本人デザイナーの先駆者となった。彼の仕事は常にテクノロジーとのコラボレーションが核をなしてきた。彼のオフィシャル・ウェブサイト内の「三宅一生の仕事と考え方」には次のように記されている。「1970年代、三宅は多くの協力者と出会い実験を重ね、次々新たな提案をしていきます。当時最新の合繊技術に改良・工夫を加え服づくりに取り入れていく一方、産地を訪ね、失われつつあった伝統の染め、織りなどの技法を掘り起こし、それを時代に即したものによみがえらせる作業を押し進めました」。このような彼の服づくりの最も顕著な例が「PLEATS PLEASE」である。それは二枚の紙の間に縫製後の服をサンドイッチするように挟んで高温プレスすることにより恒久的にプリーツを施すという、新たに開発したプリーツ加工技術による服づくりである。そしてもう一つの好例が1998年の「Starburst」である。それはこのままでは将来的に枯渇する運命にある資源問題へのテクノユートピア的な提案で、着古した服の表面に金銀銅の箔をプレスして接着し、その箔がその後ランダムに裂けることにより、着古した服が宇宙服を彷彿とさせる輝きを持った服に生まれ変わるというものである。ちなみに、三宅の弟子のひとりが立ち上げたブランド「FINAL HOME(ファイナルホーム)」は、緊急事態の際に非常用物資を入れたり暖を取るために新聞紙を詰めたりすることができるコートを提案している。
しかし「ハイテク」衣服デザイナーとしての揺るぎない三宅の肖像にはもうひとつ、より世間的な一面がある。それは現代のテクノロジーを象徴する究極の人物のスタイルおよび装いへの三宅の関与だ。私が言いたいのはつまり、スティーブ・ジョブスと、彼が毎日欠かさず長年にわたって愛用していた三宅の黒のタートルネックのことだ。
このエピソードについては2011年に刊行されたウォルター・アイザックソン著の伝記「スティーブ・ジョブス」で詳説されているが、話は1980年代、ジョブスとソニーの盛田昭夫会長との出会いに遡る。ジョブスはソニーの工場を訪問した際、全従業員が着用しているユニフォームに胸を打たれた。それは破れ止め加工が施されたナイロンのジャケットで、袖がファスナーによる着脱式のためベストとしても着られるという、三宅のデザインによるものだった。ユニフォームがソニーの工場従業員たちの間に「連帯感」を生んでいると盛田に聞いたジョブスはそれを自社でも叶えたいと思い、三宅を訪ねアップル社のためのユニフォームのサンプルデザインを依頼した。しかしユニフォームの導入という考えはアップル社の社員たちの不評を買い、却下されてしまった。けれどもジョブス本人は「それなら自分自身のユニフォームを持とうと考えている」ように見えた。理由は「日々の便利さから(彼が主張した論理的根拠)に加え、自らのスタイルを特徴的に伝えられるから」だった。アイザックソンの回想よるとジョブス曰く、彼がお気に入りの黒のタートルネックを三宅に注文すると「百着ほども」届いたという。そしてそれを証明するようにジョブスはクローゼットを開いて黒のタートルネックが高く積み上げられている様をアイザックソンに見せ、こう言ったという。「これがそれさ。一生分は優にあるよ」。
自分のクローゼットを開けて何十本ものハンガーにかけられた茶色のセーターベストに白のシャツとパンツという日々のユニフォームを見せる漫画キャラクター、ダグ・ファニーよろしく、ジョブスのクローゼットも三宅の黒のタートルネックでいっぱいだった。ジョブスは常にその黒のタートルネックに、リーバイス501ジーンズとニューバランスのグレーのスニーカーを合わせた。ニューバランスのスニーカーは文字通り地に足の着いた快適さを表し、リーバイスジーンズはアメリカの労働者のスタイルを示唆し、そして三宅の黒のタートルネックはもちろん、デザイナー——詩人と建築家のあいだのまさに絶好の場所に位置する職業——の仕事の象徴である。
実際に残された人生の時間が幾ばくかというときに一生分の黒のタートルネックの備蓄を自慢するジョブスのことを思うと切なさに胸が痛む。しかしこの事実はパーソナル・ユニフォームすなわち自分だけのユニフォームを求める思いの核心にあると私が信じるものを浮かび上がらせる。それは叶わぬ運命にある永遠性の信奉。ジョブスの「完璧なものたち」のオリュンポス山を想像してみよう。そこには間違いなく黒のタートルネックがある。そしてその傍らにはイエローのレポート用紙リーガルパッドとグリーンのビリヤード台が。(このふたつはアップル社のユーザーインターフェイスにスキュアモーフィックデザインとなって登場した。)[*スキュアモーフィックデザインとは、質感や特徴など現実世界のモチーフを模倣したデザインのこと。]
パーソナル・ユニフォームすなわち自分だけのユニフォームへのこだわりの事例は実は昔から数多く認められている。毎日同じものを着ることで知られるビッグネームの中には次のような人々がいる。ジョルジオ・アルマーニ(ネイビーブルーのシルクのTシャツ、カシミヤのセーター、ネイビーのドローストリング・パンツ、白のスニーカー)。ダニエル・リベスキンド(ブリオーニのレザーのブレザー、プラダのTシャツ、カウボーイ・ブーツ)。エリック・サティ(相続したなけなしの遺産をはたいて、栗色のすべて同型のベルベットのスーツを12着購入した)。さらにマーク・ザッカーバーグは今や彼のトレードマークとなっているおなじみのフード付きパーカーを毎日着る理由を、利他的な意味での効率的生活術であると述べて自らの装いを正当化している。「毎朝目を覚ませば10億人以上の人々のために仕事ができるなんて僕は本当に幸せな身の上だ。だからこそ自分の人生を実にすっきりしたものにしたいんだ——フェイスブックコミュニティのために最善の方法を考える以外に要求される決断の機会は可能な限り少なくすることによってね」。パーソナル・ユニフォームすなわち自分だけのユニフォームは、時間を節約し、歴史に抗う。そしてその人物が日々のこまごまとした変化に超然としていることを示す。そうした人物は、真の自分と社会との関係性という悩ましい葛藤を、それを全面的に否定することによって無効にしているのだ。
私は「ゼロ・オブソレッサンス(旧式化とは無縁)」の装いというジョークを思いついたのだが、そのオチはもちろん、そのような装いは存在しないという事実である。永遠のユニフォームというのは歴史の一頁に刻まれると同時に際立って特徴的なものとなるのだ。前述のイエローのリーガルパッドもグリーンのビリヤード台も今日のiOSの中には見つけられない。それらは2013年にディスプレーから消えてしまった。もしも#stevepunkのルックが今日クールだとすれば、なぜならそれは一種の風刺的誇張のようなものがあるからだ——古い知識人、古い労働者階級、そして古い人間をみごとな無用の長物と揶揄するような。
(今は亡き)スティーブ・ジョブスの三宅の黒のタートルネックスタイルは考察するに値するものだと思う。なぜならそれは二つの互いに大変異なる“永遠のユニフォームスタイル”観を対照的に提起してくれるからだ。スティーブ・ジョブスの場合は、ひとつのスタイルを厳格に適用することによって永遠なる一貫したルックの実現に失敗した象徴的な例である。一方、三宅一生のほうは完全なる一貫性をことごとく否定することによって永遠なる美学の達成に大変近づきつつある——たぶん他のいかなるモードデザイナーよりも。
自らのステートメントのなかで三宅は服づくりが抱える困難さについて率直に語っている。彼の当初からの目標は「現代の美に着想を得る」と同時に「時の流行やトレンドを超える」民主的な服の創造だった。これが意味するところはつまり、彼の服づくりは「リアル・クローズ」という概念を超越したさまざまな文脈で展開されているということだ。中年の、とりわけアジア女性は、PLEATS PLEASEの服がお気に入りだが、なぜならそれはゆったりとした着心地の良さと視覚的斬新さを兼ね備えているからだ。そして多くの女性キュレーターからよく聞かされるのは、三宅一生の服は「アート界のユニフォーム」であるという言葉だ。実は昨秋、「フリーズ・ロンドン2015」アートフェアの会場で、友人のひとりがこんな冗談を言った——もしも三宅の樹脂素材のバッグ「BAO BAO」を持っている人をひとり見かけるたびにお酒を一杯飲み干すというゲームをしたとしたら、日が暮れないうちにアルコール中毒で死んでしまうだろう。それぐらい会場のそこかしこでBAO BAOバッグにお目にかかったのだ。
しかしながら三宅の服はスティーブ・ジョブスの言語感覚で意味するところのユニフォームには決してなるまい。さらには、日本の典型的な作業服のDNAさえ持ち合わせることはあるまい。なぜなら三宅の服のその布の中には、意外性に満ちた折りやひだやループが潜んでいるからだ。これらの折りやひだやループは予期せぬかたちでこの世に、すなわち我々の目の前に、溢れんばかりに出現する。それはまるで未知の時間次元が、一連の服のすべてに組み込まれているかのようだ。
「A-POC」と 「132 5. ISSEY MIYAKE」というふたつの仕事こそ、三宅がいかに素材および先端技術の研究開発を通して「ワン・サイズ・フィッツ・オール(皆に合う1サイズ/フリーサイズ)」というアイディアに一石を投じているかを示す最たる例だ。
三宅の因習打破的かつ革新的な全仕事のなかで最もクールなものはおそらくA-POCだ。これはシームレスのワードローブを予め組み込んだ状態で一本のファブリックチューブを織りもしくは編みあげ、そのチューブからガイド線に沿って服を切り取るという、従来の裁断縫製という工程を飛び越えた服づくりのプロセスである。しかも素材の無駄がほとんど出ない。A-POCという名前は「A Piece Of Cloth(一枚の布)」という言葉をシンプルに略したものであるが、しかしその発音は「エポック(時代)」という言葉をかけている。(実際それはモード界で時限爆弾的効力を発揮した。)2000年に東京都現代美術館で開催された「三宅一生展——ISSEY MIYAKE MAKING THINGS」では、巨大なスプールに巻かれたファブリックロールが展示空間全体に広げ延ばされ、そこから切り取られつつある服をまとった状態のマネキンがひと続きに並んでいるという展示が行われた。それらの服はそれぞれに異なり、バリエーション豊かだった。A-POCの共同開発者、藤原大は、次のように記している。「A-POCの服を分析すれば、そこには一連のドット(点)が認められる。これらのドット(点)を人体の中にある遺伝子のようなものと考えれば、A-POCの服はそれぞれ2億個もの“遺伝子”から成っていると言ってよい」。
A-POCより後の近年に発表された132 5. ISSEY MIYAKEは、A-POCすなわち一枚の布の原理を純化し、全10種類の基本の折りたたみ形状を実現した。そのどれもが切り込み線の位置次第でシャツやスカートやトート、あるいはドレスになる。二次元に折りたたまれた状態の円形の布をぱっと広げると、ショルダーバッグまたはワンショルダーのシームドレスのようなチューブ状の服になる。ブランド名に含まれている一連の数字132 5.は、多次元的なデザイン戦略を表すコードだ。「1(枚の布)」が、「3(次元)」の衣服になり、それからふたたび折りたたまれて「2(次元)」一枚の布に戻る。その直後のスペースは未来へ跳躍する時に飛び越えられる空間を、そして最後の「5」は、「衣服として着用されることで時間的な広がりが生まれた状態」を表している。
この数字の並びの中にあるスペースは示唆に富んでいる。真の永遠性を有する服とは、時間を節約するユニフォームのようなものではない。むしろ、その永遠性という言葉(タイムレスネス)が暗示しているようなものである。すなわち、時間の喪失、言い換えれば時間からの全面的な解放をもたらす服のことである。一日のなかでその時々に合わせて服を着分けるという古(いにしえ)の名残(例:乗馬にはジョッパーズ、ディナーにはディナー用の装い)は、身体の部位ごとにそれぞれ異なる衣類を着分けることとよく似ている。A-POCや132 .5 ISSEY MIYAKE、あるいは伝統的な日本の着物のような二次元平面構造を有する衣服は、それらを折り重ねたたむことでこうした着分けの区分線を消し去る。研究者のリチャード・マーティンは、自らの1995年のエッセー『キモノ・マインド』の中で、日本人デザイナーたちのスタンスについて次のように書いている。「服の情緒的かつ精神的な存在感が顧慮しているのは一日の時間ではなく、そのデザイナーの、ひいてはその服を着る人の、情緒的かつ知的な状況のみである」。
こうしたスタンスと対照的なのが、自分独自のパーソナルなスタイルにこだわるユニフォーム着用者に加えて、今日的なブランドJ. W. Anderson(J. W. アンダーソン)や VETEMENTS(ヴェトモン)」の歴史的ごった煮戦略だ。この二つのブランドは、さまざまな時代のエレメンツをひとつのルックの中で次々と組み合わせることで、ファッションのタイムスケープ(時景)からの脱出を試みている。それはマイクロシーズン、プレリゾート、そして「ファストファッション」の上に築かれた、ますます断片化するばかりのファッションシステムの裏をかくひとつの試みだ。この意味において、三宅の一枚の布からの服づくりはかつてないほど洗練さと優雅さを増しているように見える。三宅のデザインは、美的ビジョンや、意外性に満ちた変幻自在な布のひだや折りのなかに永遠性の道筋を切り開いてゆく。そのデザインはユニフォームの精神――永遠なる服になりたいという希求――を有しているが、しかしそのユニフォームという言葉に含意されているような強制性を強いない。また身体的現実を犠牲にすることもない。三宅一生の服よ、永遠なれ。

「MIYAKE ISSEY展: 三宅一生の仕事」は、東京の国立新美術館に於いて3月16日に開幕。
エミリー・シーガルはFlash Art誌の編集主幹。